前日:天明4年10月5日/平成30年11月17日
天明4年10月6日(新暦換算:11月18日)
秋田県由利本荘市矢島 → 由利本荘市鳥海町伏見
【伏見村】
六日。里を過ぎ、山を越えれば山河があった。昨夜の雨で増水したのか、水が深く渡し舟が行かないので、伏見村に宿を借りた。
由利本荘市矢島を越えると、いよいよ山が近くなる。
国道108号線/矢島街道を進み、真澄は旧鳥海町伏見にやってきた。
このそば屋がある辺り(国道から下道に下りる)が伏見。由利本荘市の鳥海総合支所があるのを見るに、旧鳥海町の中心部だったようだ。
そば屋の駐車場から見える鳥海山の見事なこと。
橋の向こうに見える大きな建物が鳥海総合支所。その前を流れるのが子吉川。
真澄は増水した川を渡れず、向こう側で宿をとったということになる。
【女の夜業】
乙女らが薪をくべ、むまた(科ともいう木である)という木の皮を糸でよって袋にするといって、これをつむじというものに巻き、手しろ(手代という)ですりまわし、また藤葛を糸によるといって、夜なべしていた。この手しろの音ばかりが枕に響くと思っていると、鶏が鳴いて、
しつのめか 手にとる糸の なかきよを くりかへしなく くたかけのこゑ。
あれこれと物思いをして、眠れなかった。
又いつか ここにみつかん 草枕 一夜ふしみの 夢の餘波を。
真澄は矢島と同様、具体的にどこ(家・人)に泊ったかの記録を残していない。
それでも、象潟のように真澄の宿泊地が地域の記録に残っている場合もあるので、私は伏見にある郷土資料館「紫水館」を訪ねた。
伏見に訪れた真澄に関する記述は、『鳥海町史』のP732~735にある。伏見にはかつて歴史の長い旅館があったそうだが、それも開業は真澄が訪れた後の時代とのことで、結局真澄がどこに泊ったかの具体的な情報は得られなかった。とはいえ、伏見以降の旅路に関する重要な情報が得られたのは僥倖だった。
晩秋の伏見、流れる子吉川は美しかった。
まさに真澄も見た光景である。
そして、いよいよ明日、真澄はあるものの訪れを知る。
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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献
『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965
記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている
※この記事の写真は平成30年11月12日・13日に撮影したものです
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翌日:天明4年10月7日/平成30年11月19日
【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚
『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文
【地元探訪】記事まとめ
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【菅江真澄31歳・秋田の旅】『齶田濃刈寢』天明4年10月6日/平成30年11月18日
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