前日:天明5年1月14日/平成31年2月22日
天明5年1月15日(新暦換算:2月23日)
秋田県湯沢市 湯沢の町中
【鳥追ひ】
十五日。今日は“鳥追い”だといって、白粥に、餅を入れて食べる。犬、猫、花、紅葉など、様々な色をした形代を餅で作り、わりこ(割り木の弁当箱)に入れて、子どもたちが家ごとに運び歩いていた。これを“鳥追い菓子”という。
鳥追い
田畑に害をする一年じゅうの鳥を追い払うといって、小正月に子どもたちが行う行事。湯沢の辺では今でも、米の粉でつくった餅で小さい犬のさまにつくり、窓口に二十日までおく、盗難除けのまじないという。
『菅江真澄遊覧記1』より
犬っこまつりは、元和の昔より、約400年もの長い間続いたといわれる湯沢地方の民俗行事です。
そのころ、白昼堂々と人家を襲う「白討(はくとう)」という大盗賊がいましたが、湯沢の殿様がこれら一味を退治し、再びこのような悪党が現れないようにと、米の粉で小さな犬っこや鶴亀を作らせ、旧小正月の晩に、これを家の入口や窓々にお供えして祈念させたのが、この犬っこまつりの始まりとされています。
湯沢市観光物産協会・犬っこまつり
というわけで、真澄の記述はこんにち湯沢市で行われている「犬っこまつり」の原型を記録したものと考えて間違いない。
とはいえ、犬っこまつりの由来で語られる大盗賊「白討」の話は一切登場せず、餅で犬や猫といった形代を作るのはあくまでも「鳥追い」のためだとしている。
そのため、「菅江真澄は犬っこまつりのことを書いている」と言うには無理がある。
一方で、1965年に出版された『菅江真澄遊覧記1』の注解には、「盗難除けのまじない」との記述がある。「犬っこまつり」という単語は登場しないが、この時点ではだいぶ大盗賊「白討」の存在が感じられる。
湯沢の風習/民俗行事がどのような変遷を辿り、現在の「犬っこまつり」という観光イベントに結実していったのか、ひじょうに興味深い。
【木貝】
日暮れも近い頃、たくさんの子どもたちが白い鉢巻をし、小さな刀などをさして、ささやかな棒をついて、“木貝”といって、うつぼの木の笛を吹いて、群れだってはやし立てて村々を巡る。
【田むすび】【米ためし】
夜になると、“田むすび”といって、藁を十二筋結び、大きく続けて結んだものを、田が広ければ世の中もよいと言い、また、小さい結びがいくつも出てくれば、田の実りも少ない、とする。また“米ためし”するといって、米を十二回はかって、一年の占いをする。
ちなみに私が暮らす湯沢市三関には「三関大綱引き」というのがあって、北軍と南軍に分かれて綱を引き、どちらが勝つかでその年の米作りがどうなるかを占う。
もっとも、どちらが勝っても占いの結果は「豊作になる」あるいは「米価が上がる」であり、悪いことは起きないのである。
【もちやき】
埋火の端には女の子が集まって餅焼きをするといって、小さく餅を切って、二つ並びに火にうち入れて焼き、大きな声で笑っている。これは古い風習だろうか、女の方から手を出したとか、男が言い寄ったとか、これは彼、彼はこれなどと餅になぞらえながら、一緒に夜を過ごしていた。
234年前の田舎の恋バナの貴重な記録といえよう。
………………
●『齶田濃刈寢』本文・参考文献
『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965
記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている
………………
翌日:天明5年1月16日/平成31年2月24日
【記事まとめ】『小野のふるさと』――菅江真澄32歳・秋田の旅
【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚
『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文
【地元探訪】記事まとめ
言の葉の穴は「神様セカンドライフ」を応援しています
【創作・地元ネタ】まとめ