前日:天明4年9月27日/平成30年11月9日


天明4年9月28日(新暦換算:11月10日)

秋田県にかほ市象潟




【象潟にて】(※これらの見出しは『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている)

 昨日に引き続き、今日も雨風が激しく天気は冴えない。
 遥々ここまでやってきて本意を遂げずに帰るのも悲しいので、今日こそはあちこち見て歩くぞ、と真澄は思ったようだ。

 ここからの真澄の移動はもっぱら船によるものと思われ、象潟地震により象潟が隆起した今となっては、その行程を追うことは難しい。
 道の駅象潟「ねむの丘」の展望室から見た現在の象潟の光景と、展示されていた当時の絵を見て、当時の情景を思い描いてもらいたい。





 田んぼに水が張った季節であれば、ある程度在りし日の名残を思わせる光景に出会えるようだ。



【神馬藻】

 真澄は「神馬藻」という名の磯辺にやってくる。そのむかし神功皇后がこの渚に船を寄せて、馬を養った云々という話から、この名前があるのだそうだ。
 ここであちらこちらと島々を見ていると、浜風が荒々しく吹き付け、蓑や笠を吹き飛ばされそうになった。

 私の行った日はうす曇りのパッとしない日だったが、雨風には遭わなかった。



【別れ島】

 遠くに見える山の上の島(ちょっとニュアンスが掴めない。原文は「尾上のしま」)こそ、「別れ島」ではないだろうか。
 これを背に「わかるれど わかるともおもはす 出羽なる 別のしまの 絶しとおもへは」(『古今和歌六帖三/読人不知』)が詠まれた。

 神馬藻やら別れ島やらが今も残っているとはとても思えないので、この辺の場所を特定しようと思えば昔の象潟の絵に厳密にあたる必要がありそうだ。



【可保の湊は何處】

 「可保のみなと」の場所を知る人はいなかった。通り過ぎた「かもの濱」がそれだったのだろうか。名前が似ている。
 「君を見ねは かほのみなとに 打はへて 悲しきなみの たたぬ日そなき」という歌が懐中記にあったのを思い出して、なお趣深く感じた。

 歌に詠まれた地元民すらしらない名所(?)を真澄は知っていた模様。興味関心の果てに知識を蓄えたよそ者のほうがよほどその土地の文物に詳しいなんてことは、今でもあるあるである。

 それにしても、相変わらず次から次へと歌を出せるものだ。今も昔も古典からの引用は風流人の嗜みというやつか。ここでいう「懐中記」とは、歌やら何やらをいろいろと記した、真澄の個人的なネタ帳の類だろう。



 この日、真澄は気合いを入れて象潟を巡ろうと思い立ったようだが、記述の量の少なさを見るに、嵐のせいで早々にリタイアしたものと思われる。



……



※この記事の写真は平成30年11月6日に撮影したものです



……



翌日:天明4年9月29日/平成30年11月11日



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