前日:天明4年9月29日/平成30年11月11日


天明4年9月30日(新暦換算:11月12日)

秋田県にかほ市塩越 → 秋田県由利本荘市




【飛村】

 三十日。塩越を発つ。大汐越の村を出て、飛というところに到る。むかし、みちのくの塩釜が飛んで来たとして、今は神とがめて、村を飛と名付けた。その沖には飛島が波の彼方に見えた。金浦という磯家を越えて芹田の綱船を渡った。

 真澄の書き方だと、塩越(象潟)を出て飛→金浦→芹田となっているが、現在は金浦→飛→芹田である。

 というわけで本日のスタートは金浦駅。


 金浦港。
 ここから見える鳥海山は実に立派だったが、曇り空が残念。



 続いて飛。
 海岸沿いに「飛のくずれ」というちょっとした岩山があり、キャンプ場になっていた。真澄もこんな感じの道を辿って北上したのだろう。





 飛のくずれの上から飛島を見る。
 見えるには見えたが、写真では……



 飛の道中ではこんなのを見つけた。
 真澄の時代にはあったと思われるが、日記には登場していない。




 芹田の橋を渡ってしばらく行くと、由利本荘市である。






【あまはぎ河】

 あまはぎという河には仮橋がかけられていた。この河は水が少なく、砂が流れるような河だが、渡ろうとして足を入れれば、沼田のように足を深くとられ、命を落とす旅人も大勢いた。もし渡るなら、地元民の案内で越すべきだ。また、このような橋をかけわたすこともあると、親切な人が教えた。塩を焼くところがあったので、

もしほやく 海士のとまやの 夕けふり たつをしるへに 宿やからなん。


 現在の由利本荘市西目町海士剥(あまはぎ)には、真澄が記したような面影はない。
 西目川のたもとにある海士剥地区はかつて西目潟があったのを、文政11年(1828年)から砂どめ工事を行って沼沢が乾いたという。



【道しるべ】

 路も暮れて、傍らの高い柱を星の光で道しるべとして、これをたよりにもとめもとめてくると、柱(雪の頃、道に迷わないように、道の傍らにとても高い柱を立て、あるいは杭をさしている)が途絶えてしまい、どうしたものかと思っていると、鼓、貝、鉦を鳴らしてどよめきが聞こえてきた。



【本荘の火事】

 これはどうしたことだと見ると、火が高く燃え上がったので、行く道がたいそう明るく見えた。この火は火事だった。家が一軒あるので尋ねると、本荘という里だと答えた。今は家が一軒焼けた騒ぎによって往来が激しく、道も進めないので、少し歩いて里の端に宿を求めた。女主人が灯火を取り出し、私の袖が濡れているのを見て、埋火でたもとを乾かしてお休みなさいと、親切に言うので、

たひ衣 浦つたひきて 寄る波の よるこそしらね 袖はぬるとも。


 こうして、真澄は本荘にやってきた。



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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献

『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965

記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている



※この記事の写真は平成30年11月12日に撮影したものです



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翌日:天明4年10月1日/平成30年11月13日



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