前日:天明4年9月28日/平成30年11月10日
天明4年9月29日(新暦換算:11月11日)
秋田県にかほ市象潟
今日から、真澄の日記を抜粋する際は斜体とする。
Emanon Proだとchromeで見たとき斜体になっていないのだが、とにかく斜体にしている。
【遊女】
雨が咲夜から降り続け、波の音も騒がしい。障子の向こうで女が盃をとって、酔って泣きに泣いて、ふざけているのは、髪長といって、この磯の遊女である。また人に隠れて、夜遅くに戸を叩いて来るものもおり、これをこもかうむりという。なべという一夜妻もいるなどと、同じ宿に泊まった旅人が集まって、仲良く語り合った。
にかほ市の資料が正しければ、この時真澄が泊っていたのは塩越の旅籠・岡本屋。
様々な形で遊女が訪れるということは、それなりの規模の宿泊所だったのだろう。
【磯の島々】
古城の跡を左手に、中橋という川岸から小舟を出して、妙見島、稲荷島に行こうと人が橋を渡るのを、入道島の影からほのかに見つついると、岸で釣りをする男女はやがて棹を捨て、しじみ、黒貝、うば貝などを拾い歩いている。船がまと島、けんかい島を巡っていると、雨が止んでよく晴れた。
象潟到着三日目にしてついに本格的な真澄の観光が始まった。幸いにして天候も回復したようだ。
ちなみにこの日はこれから丸一日を象潟観光に費やしている。
【鳥海山】
能因嶋の向こうに見える鳥海山の姿は、富士山を、三月末、四月はじめに見るように、かの小まだらの白雪に、雲が一筋流れかかっている。この山は大物忌の神が鎮座し、麓は蕨の岡より登り詣でる峰である。こちら側の岸辺に横たわる山を大ひらという。この山の辺りが昔の古い道だという。
鳥海山についての言及は秋田に入ってから初。
象潟と鳥海山のコントラストはさぞ映えたことだろう。
私が訪れた日の鳥海山にも一筋の雲がかかっていた。
上の方は完全に曇って隠れてしまっていたが……
現在は蚶満寺を起点に象潟の九十九島を巡る歩道が整備されており、当時の面影を偲ぶことができる。
これはコースの出発地点に近い「駒留島」という島で、上からは鳥海山をはじめ残る島々の様子を眺められる。
それにしてもこの「島」、雄勝町のただ一つ残る「八十島」――「二つ森」に雰囲気がそっくりだ。 →秋田県湯沢市雄勝町の小野小町伝承
なお、真澄は『粉本稿』の中に象潟で見た鳥海山の絵を描いている。
(大館市立図書館・菅江真澄作品集より引用 http://lib-odate.jp/sugae.html )
ちょっと盛ってない? 盛り癖はこの頃からか!
【象潟ふとん】
船が藻を刈り集めているのは、流れ藻をつらねて編んで、馬の背にかけて寒さをしのいだり、町人が夜具やふすまに使ったりしている。この名をきさかた蒲団という。
この手の民具は郷土資料館にでも行けば実物が見られるだろうか。
【毛笠】
【尚辿る島々】
鍋粥島、兵庫島を漕ぎ行くに、あしの穂に鶏の尾羽をまぜて編んだ笠を着て、蓑の袖をかかげ、小さい船をとばして、「おそさおそさとふたこゑ三聲」と歌うのは、船音頭という歌である。やがてこの漁師が船を寄せ、利鎌を腰から取って玉藻を刈り取るのは、からすしま、椎島、まがくし、今津しまという。
漁師やらなにやらでたいそうにぎわっていた様子がうかがえる。真澄の記述を見る限り、当時の象潟は橋はあまりかかっておらず、往来には主に小舟が使われていたようだ。
ここで再び象潟駅にあった当時の絵。
むら立つ松に鷺の群れがとまっているのを、雪が降ったかのように思っていると、船が近づいて驚いたのか、一斉に飛び立った。ししわたり、つづきしまとやらは、糸を引き渡したかのようだ。大嶋、めおとしま、これは松が二本生えているからだろうか。多くの島の中でおやしまというのは、苗代島、ひらしま、ならしま、へんてんしま、蛭子島、ここらの島陰に鵜が嘴を揃えて魚を食い、羽を広げて岩の上に居並ぶのを見つつ船を漕ぐ。
おきつ島 鵜のゐる石に ふねよせて なみかけ衣 象潟の浦
木の上に鷺が群れで止まっている様子を「雪が降ったようだ」と例えるセンス。
【磯邊の神々】
鷹嶋、天神嶋、大森などを見て、大平の端の梢が枯れたところは田の神の社である。守夜神を祀るという。総じて潟の端は田畑で、秋は五穀が実ったのを刈り束ね、小舟がいくつも漕ぎ出して、島の眺めがますます面白くなると人が言う。大潮越、こしかけの八幡の社、こちらに見える冬木立の中に白い旗が翻るのは、白山の神を祀り奉る御社である。蚶満寺の西に船をつけて、しばし下りた。
蚶満寺の庭園には「舟つなぎの石」という、その名の通り船を繋いでいたであろう石が残っている。後述する「西行上人の桜」もすぐ近くにあり、真澄が船をつけたのはまさにここだろうか。
今でこそ舟つなぎの石の前には一面の田畑が広がっているが、かつては潟の光景が広がっていた。
【願かけ櫻】
西行上人が「波に埋れて」と歌った櫻は、水の上に枝をさし出していた(昔の桜は枯れて、別の木を植えたという)。この枝ごとに紙をひき結んでいるのは、なんの願い事だろうか。
「西行上人の桜」は「西行法師の歌桜」の名前で、今なお蚶満寺の庭園に存在する。
というわけで、この辺りで真澄は蚶満寺の一帯を歩いていると思われるので、蚶満寺の写真を。
立派な山門。
ここから先は有料。
真澄の日記にも登場する諸々はこの庭園内にある。
庭園には樹齢千年を越えるというタブの木が。
【親鸞腰掛石】
浜のひさしのようなところに石がある。これは親鸞聖人の腰掛けた石であると、囲いを巡らせ、石碑に記していた。
ありますねえ!
冬枯れたねむの木の傍らに、「象かたの 雨やせいしか」と記された石があるのは、世に多い芭蕉翁の塚石である。
(中略)
ありますねえ!!
ちなみにこの芭蕉句碑は宝暦十三年に建てられたようで、これは真澄が訪れるわずか21年前のことである。
「象潟の 雨や西施が ねぶの花」というのは非常に有名な芭蕉の句で、現在の象潟にもあちこちに西施の像が立つほどである。
実際芭蕉の存在は当時の文化人にとって巨大だったらしく、「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し」という芭蕉の言葉は下の真澄の歌にも影響を与えているようだ。
【浪荒き崎々】
さて日も暮れようとして、枯れた芦が茂る中を船を引き出して、磯ひと山などを見やりつつ、もとの岸にあがり、三熊野の神を祀った岩根にのぼって遠近を見つつ、あまが崎、さいの神、とがさき、不動さき、この辺りは荒波が打ち寄せ、潟を見る目には恐ろしさを覚えた。「おしまれぬ 命もいまは おしきかな またきさかたを 見んと思へは」。この歌は時頼公がこの眺めに感じ入って読んだ十首の歌のひとつだが、他は書き洩らした。
例によって、これらの神々の所在は今となっては辿りようもない。
ただ、「さいの神」だけは、なんと道の駅で見つかった。
この才の神神社が出来たのは2004年だそうだ……
ついでに道の駅で超神を見つけた。
そんじょそこらの神々よりもよほど御利益がありそうである。
【人々風俗】
行き交う人は、アッシという蝦夷の島人が木の膜を織って縫いものをした短い衣を着て、小さい磯刀(まきりという小刀である、蝦夷人はこれをエヒラという)を越にかけ、火打ち袋を添えていた。釣り漁師はたぬの(毛布である)に顔を包んで毛笠をかぶり、男女の違いも見えず、あちこち行き交っていた。あちらこちらと見て歩き、筆にまかせて、
きさかたの あはれしりとや 夕まくれ こきつかれへる 海士のつりふね
としふとも 思ひしままに 蚶潟の あはれをしむる 夕くれの空
旅衣 わけこしここに 象潟の うらめつらしき ゆふ暮のそら
【磯は昔の潟】
この辺りの島は夕霧に隠れ、頂のみ少し現れ、舟が行く棹の音だけが聞こえてくる。かなたの海面は荒々しく、群立つ岩に浪がぶつかり、その音が凄まじく聞こえる。そのむかし、ここは潟だったが、波が砂を運び潟が消えて、このように陸となった。その島の面影は、丘、低い山のように残ったという。ほんとうにこの浦の眺めには、ただ心静かに涙がこぼれ、故郷を想わずにはいられなかった。
なみ遠く うかれてここに きさかたや かつ袖ぬるる 夕くれの空
そんなこんなで、宿に帰った。
以上が、234年前に菅江真澄が訪れた象潟の記憶である。
……
●『齶田濃刈寢』参考文献
『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965
記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている
※この記事の写真は平成30年11月6日に撮影したものです
……
翌日:天明4年9月30日/平成30年11月12日
【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚
『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文
【地元探訪】記事まとめ
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【菅江真澄31歳・秋田の旅】『齶田濃刈寢』天明4年9月29日/平成30年11月11日
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