前回:天明4年の冬の記憶①
天明4年の冬の記憶
※日記に日時の記載なし
秋田県湯沢市柳田
【毎日の挨拶】
どんな日でも、人がその日のはじめに入ってくれば、ただ、「めでたい」と言って入るのは習慣である。
そんなならわし知らない……
【煙草ふき時】
童を背負った老女が麻衣をかぶって、雪垣のうちに頭を出して、
「今朝ははァ、“かいな風”にてはァ、わろし。家のわらしが、連れ出してと、はたりしままにやってきたが、もう“煙草ふき時”《午前十時頃に煙草を吹いて休む、これを煙草吹きという》だ」
と言って去った。
「はたる」はちょっと前に羽後町西馬音内の市場でも聞いた。
禁煙が叫ばれる世の中ではあるが、田舎においては相変わらず喫煙率は高く、ここ湯沢市も例外ではない。今なお「たばご」がそのまま「休憩」という意味で使われるくらい、昔っから喫煙率が高かったのである。
【かんぢきの由来】
たまたま、近い里の、なんとかという所に行こうとここを出ると、真っ白な野や田面に、波が寄り来るように雪が吹き渡るのは、ただ、海の上を行き交うようだ。
田畑、崖、川面などをまっすぐ行くには、かんぢき《また“かち木”ともいう》といって杉の小枝を押し曲げて、靴のように履く。その昔、義家公が安倍のやからを攻めるべく軍を率いた時、にわかに大雪が降り出し、道を消してしまい困ったので、兵に命じて、辺りの杉の枝を折らせ、これを押し曲げて縄でつづり、これを履いて容易に行軍できた。この時から今の世まで使っているのがかんぢきであると里人が言った。その時の雪は季節外れで、水無月(陰暦六月)に降ったという。そのいわれは、安倍のやからは神宮寺の淵という、底無しの深みに住む、怪しの魚の子であり、季節に合わない雪を降らせる術を持っていたのだと、怪しの物語をするのは、かんじきの博士といったところか。
かんじきの由来インスマウス説。
安倍一族は深きものどもだった……?
こちらは羽後町歴史民俗資料館に展示されている、わりと現代的なかんじき。
【駕籠そり】
人が乗り、米を積むなどした雪車(そり)が数多く引かれていくなかに、薬師などは重病人のところに急ぐのだろうか、物見から《そりに、輿のように作って載せている。これを普通の旅籠のように作り、“かごそり”または“箱そり”という》顔をわずかに出して、引かれていく様をみながら、「初みゆき ふりにけらしな あらち山 こしのたひ人 そりにのるまて」という、古い歌の意に思い至った。
(大館市立図書館・菅江真澄作品集より引用 http://lib-odate.jp/sugae.html )
【目すだれ】
行き交う人は、目すだれ、またはめあてともいう、薄い布を額から覆いかけていた。これは、眼の病を防ぐためである。
ここで真澄が書いている目の病とは、「雪眼炎」「雪目」のことだろう。
実際、雪が降り積もった状態で快晴になると、照り返しによって目への負担は激烈なものとなる。目すだれは雪国で暮らす人々の知恵というやつである。
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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献
『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965
記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている
※この記事の写真はいつかの冬に撮影したものです
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次回:天明4年11月15日/平成30年12月26日
【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚
『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文
【地元探訪】記事まとめ
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【創作・地元ネタ】まとめ
【菅江真澄31歳・秋田の旅】『齶田濃刈寢』天明4年の冬の記憶②
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