天明4年9月10日/平成30年10月23日、『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』が始まった


天明4年9月25日(新暦換算:11月7日)

山形県飽海郡遊佐町吹浦 → 秋田県にかほ市象潟町小砂川




【吹浦を過ぐ】(※これらの見出しは『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている)

 山形県遊佐町の剣龍山を菅江真澄は下り、吹浦についた。
 当時の吹浦には関所があり、真澄は酒田で用意した関手形をここで見せている。
 写真は吹浦駅である。


 真澄は多くの人が行き交う様を見て、以下の歌を詠んでいる。

あさまたき 汐風さむく 吹浦に 波かけ衣 きぬ人そなき

 なお、私は車が行き交う以外に誰一人姿を見かけることはなかった。


 吹浦には海岸の奇岩に僧形を刻んだ「十六羅漢岩」というものがあり、ちょっとした観光名所になっているのだが、真澄はこれについて記していない。
 それもそのはず、十六羅漢像が彫られたのは江戸の終わりから明治にかけてであり、真澄が訪れた時には存在していなかったからだ。


 真澄が見なかったものを見て少々得した気分である。


 おそらくはこんな感じの道を通って、


 真澄は鳥崎の浜、



 滝の浦を歩き、



 女鹿の関に到り、関手形を渡した。

 真澄はアマハゲについては何も記していない。


 現在も女鹿から吹浦にかけての一帯は複数のバイパスが整備されるなど、交通の要所として機能しているようだ。




【秋田縣地に入る】

 女鹿を過ぎ、真澄は「三崎坂」にやってきた。
 三崎坂は現在「三崎公園」として整備されている。


 なお、この三崎公園から秋田県である。


 というわけで、菅江真澄、ついに秋田に到る!


 三崎公園の駐車場から小高い丘を登っていくと、諸々の史跡がある。




 三崎坂/三崎峠/三崎公園は旧街道が通っていたところで、かの有名な松尾芭蕉&曾良もここを通っている。


 曾良随行日記の石碑があるくらい、『おくのほそ道』はプッシュされているが、真澄は影も形もない。この圧倒的な扱いの……差!




【慈覚大師堂】

 真澄は三崎坂にある「慈覚大師の御堂」について、疱瘡やはしかを軽くするように守ってくれるということで、子や孫のために詣でた人が御堂の前にうずくまっていたことを記している。


 ここで真澄は「手なが(手長)」という存在についての伝承を記している。
 御堂の下には手長にとられた(殺された/食われた?)人の屍がたくさんあったが、今は岩が落ち重なって見えなくなったという。



 実際、三崎坂には慈覚大師堂の周辺も含め、とにかくでかい岩がそこら中にごろごろと転がっている。



 なかにはこんな面白い岩も見つけた。



 こういう岩の存在が、手長の伝説の醸成に一役買ったのだろう。いつぞや現地で話を聞いた磐梯山の手長足長も、岩を投げる妖怪だった。
 ジオパーク的にも実に面白い。現に鳥海山・飛島ジオパークのジオサイトだもんな。

 真澄は手長について、「水の術も持っていたのだろうか、海に入っては行き交う船を押しとどめた、世にも恐ろしい怪物だった」と続けている。いわ・みずタイプか。

 『菅江真澄遊覧記1』によれば、手長は嵯峨天皇の時代に鳥海山に住んでいた毒蛇で、「足長」もいたのだそうだ。
 また、この手長に関連して、「有耶無耶の関」という話も三崎坂に伝わっている。


 三崎公園の管理人さんいわく、「手長・足長という妖怪の伝説はあるが、それが蛇だとは聞いていない」とのこと。
 一応、にかほ市の資料によれば手長・足長は「鬼」らしい。

 また、慈覚大師堂の横にある供養塔は戊辰戦争の戦没者を弔うためのもの。
 なんと50年ものあいだ当時の亡骸が野ざらしにされていたのを、酒田の人が集めて弔ったのだそうだ。
 手長がいなくなった後も、人間は……



【たがく】

 真澄は三崎坂で山人二人と出会い、彼らが「たがく」という言葉を使っており、これは「なんであれ手に取ること」だと書いている。
 こんな感じで、真澄はその土地で出会った方言の類を日記に記録することも多い。

 しかし、私は生まれも育ちも秋田の純粋秋田県民だが、「たがぐ」とは言わない。
 そのかわり、何かを持つことを「たなぐ」とは言う。
 愛知出身の真澄には「たなぐ」が「たがぐ」と聞こえたのだろう。

 ただ、秋田の県南は県南でも西のにかほ市と東の湯沢市では微妙に発音が異なる可能性、時代によって発音が変わった可能性もある。情報求む。


【情報提供あり・追記】

 山形では「たがぐ」と言うようだ。
 つまり、真澄が出会った山人は山形側の人間だったのだろう。

 「たなぐ」と「たがぐ」の違いは、秋田の内陸と沿岸の違いではなく、時代の違いでもなく、秋田と山形の違いだった。
 秋田縣地で山形側の人間に出会い、山形側の方言を記録することも、県境ならば起こり得るか。

【追記おわり】

 ちなみに山人二人がたないでいたのは山葡萄の実に似たものだった。歯によくきく薬として、市の日には売られているそうだ。
 で、味は。
 真澄いわく、葡萄と同じである。



【小佐川にて】

 真澄は三崎坂を過ぎ、小砂川の磯辺の家に入った。
 写真は小砂川海水浴場。




【手かけ】

 真澄はなにかしらの紹介の手紙をもらっていたようで、そこにある名を訪ねると、しら豆を折敷に盛って差し出された。これは「手かけ」という風習だそうだ。

 真澄がさて出発するというと、家の主も汐越(塩越)に行くからと引き留められるうち、日が暮れた。



【庄内のおこしやすめ村】
【小走り】


 その後、家の主の出身地の話と、何かを打ち鳴らして夜の村を巡る「小走り」という風習の記述がある。

 亥の時(21時~23時)が近いということで、枕をとった。



 ……



※この記事の写真は平成30年11月6日に撮影したものです



 ……



 これから毎日、こんな感じで『齶田濃刈寢』の足跡を辿っていく。

 秋田入り一日目からかなりのボリュームがあり、正直大変だった。



翌日:天明4年9月26日/平成30年11月8日



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初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚

『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文


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