天明4年(1784年)9月10日、菅江真澄は出羽国(今日の山形県&秋田県に相当)に入り、日記/紀行文『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』を記し始める。

※wikiには『齶田濃假寢』とあるが、秋田叢書では『齶田濃刈寢』というタイトルで収録されている。この企画では後者のタイトルを使用する。

天明四年甲辰の九月十日出羽の国に入たるより、おなしき、しはすの三十日の夜まてかいのせ、はくろやま、きさかたのことをしるす。

  『秋田叢書/菅江眞澄集第四』より

 この9月10日というのは旧暦であり、新暦に直すと10月23日
 つまり、234年前のまさに今日、『齶田濃刈寢』は始まった
 『齶田濃刈寢』は真澄が出羽国――山形県の鶴岡に足を踏み入れるところから始まり、山形を北上して秋田に入り、その年が暮れるまで秋田で過ごした内容が書かれている。

 この時、菅江真澄(当時は「白井秀雄」と名乗っていただろうが)は31歳
 なんと私と同い年である。
 もちろん、当時は数え年で現代は満年齢という違いはあるものの、大切なのは「自分はいま何歳か」という認識である、と考えている。当時の真澄に年を聞けば、31歳と答えが返ってきただろう。

 ひょんなことから菅江真澄と縁を結び、彼の足跡を辿った身として、「次」に何をしようか、何ができるのかをずっと考えていた。
 菅江真澄が残した文章や図絵を訪ね歩くことは、時間さえあればいつでもできる。それをきちんとした形で纏め上げるには恐ろしく膨大な労力が必要になるが(経験者談)。


 しかし、「同じ年齢で、同じ季節の、同じ場所を歩く」ことは、今しかできない

 というわけで、234年の時を越えた、同い年の視点によるリアルタイム追想行脚を行うことにした。


 ……と意気込んだはいいのだが、その都度山形まで通って事細かに『齶田濃刈寢』の記述を追うのは物理的に困難なので、実際と真澄と行脚を始めるのは「秋田に入ってから」とする。つまり、平成30年11月7日からのスタートである。
 もっとも、その翌週には東京インターナショナルオーディオショウもあるし、「完全な」リアルタイムは難しいので、数日間ぶんをまとめて取材したものを一日ごとに出していく、という形になる。


 その後も旅に明け暮れた真澄は後年再び秋田に戻り、それ以降は秋田で過ごし、秋田で生涯を終える。
 『齶田濃刈寢』はそんな真澄にとって、初めて秋田を訪れた時の貴重な記憶である。

 かつて菅江真澄が見聞し、感じ、日記に書き残した森羅万象は、平成30年の現在、どのような変遷を遂げて在るのか。
 それを、彼と旅するなかで目の当たりにしていきたい。


 ちなみに、『齶田濃刈寢』の直後には『小野のふるさと』が始まる。当然そちらも行脚を続ける。


秋田入り:天明4年9月25日/平成30年11月7日



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【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚

『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文


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