前日:天明4年9月30日/平成30年11月12日
天明4年10月1日(新暦換算:11月13日)
秋田県由利本荘市 → 由利本荘市埋田 → 由利本荘市前郷
【梅田】
神無月の朔日。すなご坂というところを越えて梅田に到る。この辺りの山々はみな紅葉しているが、珊瑚の梢が立ち並ぶように、他の木がまったく見当たらないので、歩きながら、山は紅を塗ったのかと、行く人が褒めるので、
二月に 咲花よりも 紅の 梅田のさとの にほふ栬葉。
本荘の宿を出発した真澄は子吉川を遡り、現在の国道108号線沿いに旅を続ける。
写真は本荘で日本海に注ぐ子吉川。
真澄の記述にある「梅田」は現在の「埋田」。
その名の通り一面の田んぼが広がっているが、残念ながら真澄が「珊瑚の梢」と形容した紅葉の光景はない。現在の山の紅葉はこんな感じである。
みやうち、玉の池、相川(綱船の渡しあり)たてじ、くろさわ、妙法、瀧澤川というほとりに来た。この水上は鳥海山の峰から落ちて、水の流れが激しく、行き交う船の尽きることがなかった。
真澄の記述にある「相川」は現在の「鮎川」だと思われる。
この辺りは複数の川が子吉川に合流しており、鮎川にかかる橋は当時はこういう感じのところに綱船を渡していたんだろうなあ、と思わせる雰囲気がある。
黒沢を過ぎ、
子吉川にかかる滝沢橋を越えて、
【前鄕に泊る】
この日は、前鄕という村に宿をとった。
真澄は前郷にやってきた。
前郷は旧由利町の中心部だったようで、舟着き場跡の看板があった。
真澄も記したような子吉川が水運で活躍した時代はとうに過ぎ去り、かつての舟着き場は1メートルほどの、言われなければわからないような水路の痕跡を留めるのみとなっている。
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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献
『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965
記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている
※この記事の写真は平成30年11月12日に撮影したものです
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翌日:天明4年10月2日/平成30年11月14日
【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚
『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文
【地元探訪】記事まとめ
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【菅江真澄31歳・秋田の旅】『齶田濃刈寢』天明4年10月1日/平成30年11月13日
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