前日:天明5年1月6日/平成31年2月14日
天明5年1月7日(新暦換算:2月15日)
秋田県湯沢市柳田(たぶん)
【年始客きて】
七日の粥は、おおよそ故郷と同じである。万歳を謡う声、“あきのさし”、“ふくたはら”、“ちちのこかねの箱”など、家々に乞食が物をもらいに出入りして歩いている。挨拶に人が来れば、“手かけの折敷”に、うちまき(洗米)、干し柿、昆布、粟を盛って出すが、少し頭を下げて、酒のかわりといって銭を包んで扇にのせ、差し出して帰る。
七草粥をはじめ、年始の風習が事細かに記されている。なんだかよくわからん風習である。こうした風習そのものよりも、なぜこんな風習が生まれたのかが気になるところだ。
【やせ馬】
また子供が来れば、家の主人が、松の葉に銭を通して、「この馬は痩せております」などと言いつつ与える。松の小枝に銭を繋ぐことは、出羽・陸奥であることとか。
『菅江真澄遊覧記』によれば、松の小枝に銭を通して与えるのは「お年玉」であり、これを「やせ馬」というのだそうだ。ちょいと調べてみると割と今でも残っている方言のようだが、あいにく私は聞いたことがない。
【追記】
「昔は使ってたよ」というコメントを得た。少なくとも昭和30年代ころまでは、お年玉の意味で「やせ馬」「やせまっこ」という言葉が使われていたようだ。
………………
●『齶田濃刈寢』本文・参考文献
『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965
記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている
………………
翌日:天明5年1月8日/平成31年2月16日
【記事まとめ】『小野のふるさと』――菅江真澄32歳・秋田の旅
【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚
『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文
【地元探訪】記事まとめ
言の葉の穴は「神様セカンドライフ」を応援しています
【創作・地元ネタ】まとめ
【菅江真澄32歳・秋田の旅】『小野のふるさと』天明5年1月7日/平成31年2月15日
スポンサーリンク