前日:天明4年12月29日/平成31年2月8日


天明5年1月1日(新暦換算:2月9日)

秋田県湯沢市柳田




【柳田村にて】

 出羽国雄勝郡、秋田の縣で年を越した。天明五年正月朔日、初日が煌びやかに差し昇る光に、雪の山々が美しく見渡され、軒端を飛び交う群雀のさえずる声も、今日はのどかに思って、外に、たいそう高く積もった雪を見ながら、

あさ日影 匂へるままに ふりつみし 雪はみなから 霞む梯。



 この季節に晴れて初日の出が見られたとは僥倖だ。



【種々の供物】

 家ごとに訪れて、新年を祝う人の言葉も晴れやかに行き交っている。鴨居、柱などに掛けた稲穂、粟穂の餅、また“おかの餅”というのは、ウカノミタマの餅のことだろうか。瓢箪のように中がくぼんで平らな餅を、家に住む男の数だけ神に供えている。鏡餅はどこにでもあるものだが、栗、柿、干し蕨(わらび)、鯡(にしん)、昆布、五葉の枝を添えて、“遠つおや”(先祖)を祀るといって、このような魚の生臭さもいとわず、神棚、仏前に供えるのは、上代の風習が移り変わることなく続いているもので、素晴らしい。


 こういう純粋に民俗がらみな展開になると私では手も足も出ない。
 もしかしたら何かしらあったのかもしれない我が家の正月の伝統も、結局は祖父母が亡くなった時点で絶えてしまって久しい。

 ここで登場する諸々の供物はおそらく真澄が滞在する草彅家で見たものと思われる。『菅江真澄遊覧記』によれば「稲穂の餅」「粟穂の餅」は豊作祈願のまじないだそうで、別に草彅家に限らず各家で供えていたものだろう。
 「おかの餅」の「おか」は「ウカノミタマ」の「ウカ」からきていると考えて間違いなかろう。倉稲魂命はその名の通り穀物の神であるので、これらの餅シリーズは総じて豊作を祈願するためのもののようだ。



【若水くみて】

 星を見上げながら起き出し、「五千百回七流れ、八潮の澤の七龍の水」と唱え、掬いあげた若水を、まず、幼い童から飲み始めて、老人の手で、かわらけ(器)を置いた。


 この歌/呪文(?)、「八」とか「龍」とか「若さ」とか、なんだかこの話を連想させる。ただの偶然だろうか。



【おけらの根を焚く】

 人々は“わかんむすび”の神前に額づき、神前をはじめ、閼伽棚の上でおけらの古根を焚き、並いる人々が嗅ぎ、体や衣服をくゆらせているのは、病気にならないためだといって、強く燻すのは古い習慣なのだろう。少し雨が降り、一度雷が響いたのは、今年が豊作になるお告げであると、里の者がとても喜んでいた。


 『菅江真澄遊覧記』では「わかんむすび」を「若皇産神」とでも書き、「正月神」のことであると言っている。が、私は普通に「タカミムスビ」が訛っただけのように思えるのだが、どうだろう。
 いずれにせよ、倉稲魂命やら高皇産霊尊やら、数多くの神々を正月に祀っていたことは確かなようだ。

 この時、時代的には天明の大飢饉の真っただ中のはずで、豊作のお告げはさぞ嬉しかったことだろう。



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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献

『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965

記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている



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翌日:天明5年1月2日/平成31年2月10日




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