前日:天明4年10月18日/平成30年11月30日


天明4年10月19日(新暦換算:12月1日)

秋田県羽後町西馬音内 → 羽後町杉宮 → 湯沢市柳田




【おぢ、をば、あね】

 十九日。まだ暗いうちから、「おじ、起きろ」という(弟をおじといい、妹をおばという習わしである)。「まだ外は暗い」と答えれば、「けしね(米をいう。“かしよね”のことだろう)を鼠がとったようだ。あねはどこに寝ている」という。あねとは、主人の妻をいう。何太郎、何子の“かか”・“とと”と、いっこうに名を指して呼ぶことがない。


 人称代名詞が充実している秋田。
 真澄が西馬音内で泊った家は定かではないが、この記述を見る限り、多くの親族が住む家だったようだ。



【杉宮三輪大明神】

 夜がすっかり明けて、雪道を踏みしめ、杉の宮というところにやってきた。三輪の神を移し奉るという。たしかに、古い御社と思えて、年を経た杉が群立っていた。里の翁がきて、「この神はいにしえ、大和の国三輪の神垣より、飛んできてここに移られた」と、我知り顔で語った。陸奥栗原郡大日嶽のことを記した文章に、【うんぬんかんぬん……】といあるのは、この社のひとつのことだろうか。


 ついに真澄は長らく滞在した西馬音内を出発し、杉宮の三輪神社にやってきた。

 境内の杉林は今も残っている。


 ここで真澄が「この社のひとつ」と書いているのは、三輪神社の境内に三つの神社があるからだろう。
 現在では参道から向かって左が八幡神社、正面が三輪神社、右が須賀神社(蔵王権現)である。


 『齶田濃刈寢』における三輪神社に関する言及はこれだけだが、三十年後に真澄は再び三輪神社を訪れ、『雪の出羽路 雄勝郡』と『勝地臨毫 出羽国雄勝郡』で詳細な記録を残している。
 この辺りに関しては『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』第十章に詳しい。



【柳田村草彅氏】

 御物川(おもの川という)を渡って柳田村という、笹屋根の家ばかり多く並ぶところに入って、草彅(むかし源義家が出羽国に入った時、弓で野に繁る草の露をなぎ払ったことから、くさなぎと呼んだという)何某という、親切な翁に宿を頼めば、「雪が消えるまでここにいなさい」など、丁寧に言ってくれたのをたよりに、今日は暮れた。

 雄物川を越え、ついに、真澄は湯沢にやって来た。
 柳田橋を渡った一帯が柳田である。

 羽後町西馬音内~湯沢市柳田一体の地図を示す。
(地理院地図から作成)

 さらば羽後町、また三十年後。


 柳田で出会った草彅氏の家に真澄はかなり長い期間滞在することになる。
 しかし、この「柳田の草彅氏」が誰だったのか、家がどこにあったのか、ということに関しては、地元の人に聞いても、今となってはわからない。

 ただひとつ確かなのは、昔の湯沢には旅の若者を長期に渡って受け入れる余裕と心意気を持った家があったということだけである。



 『齶田濃刈寢』の日記はまだ続くのだが、これからは日付の記載がなく、正確に何月何日かはわからない日が多くなる。
 それを踏まえて、これからは記述の内容から推定した日時で追っていく。



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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献

『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965

記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている



※この記事の写真は平成30年11月29日に撮影したものです



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次の日記:天明4年10月22日/平成30年12月4日



【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚

『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文


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