前日:天明5年1月9日/平成31年2月17日


天明5年1月10日(新暦換算:2月18日)

秋田県湯沢市柳田(たぶん) → 湯沢市成沢 → 湯沢市岩崎




【岩碕に行く】

 十日。岩碕というところに行こうと、鳴澤という村の端に、雪を分けて流れる水があれば、

きのふけふ 山路は春に なる澤の 水こそみつれ 四方の長閑さ



 「岩碕」は現在の「岩崎」。「鳴澤」は現在の「成沢」。

 成沢は柳田の東にあり、成沢の北に隣接するのが岩崎。


 この季節の柳田から見ると、成沢と岩崎は広大な雪原の向こうである。



 うらうらとのどかな柳田を出発し、



 雪原を突っ切り、


 ちょうど成沢の端あたりにある「白子川」にやってきた。真澄の書いた「雪を分けて流れる水」とはおそらくこの白子川のことだろう。


きのふけふ 山路は春に なる澤の 水こそみつれ 四方の長閑さ




【初庚申】

 やがて岩崎に到って、石川何某の家に泊る。今日は初庚申の日だといって、火焚き屋(台所)の梁に“男結び”といって、縄でひとところを結んでいる。この一年、家に盗人が入らないためのまじないだという。庚申するといって、部屋の向こうから話し声が乱れ合うのを聴きながら、眠った。


 というわけで、成沢を経て真澄は岩崎にやってきた。



 真澄は岩崎の石川某氏の家に泊ったと書いているが、こんにち「岩崎の石川家」といえば、まっさきに思い浮かぶのが石川孫左衛門――「石孫本店」である。


 ただ、初代石川孫左衛門が醤油醸造を始めたのは安政2年(1855年)、真澄が訪れた時から70年後のことである。
 それでも石川繋がりで何か知っているはずと思って訪ねてみたら、「真澄が泊ったのは石川平兵衛の家でしょう」との答えが返ってきた。

 石川平兵衛は石川孫左衛門の本家で、造り酒屋を営んでいた。しかし現在、家は残っていない。そして石川平兵衛の家は肝煎りでもあったそうで、やはり真澄は各地の有力者の家を渡り歩いていたようだ。
 なお、石川平兵衛の家は石孫本店のすぐ近く、現在の岩崎の児童公園の辺りにあったそうだが、完全に雪で埋もれていた。




 石孫本店も相当に年月を重ねた建物だが、さすがに「男結び」といった風習は残っていないそうだ。ちなみにこの「男結び」、『菅江真澄遊覧記』には「魔除けとして柳田では一軒だけ最近まで行なっていた」とある。







 さて、岩崎といえば泣く子も黙る境界の守り神「鹿島様」が有名だ。
 岩崎に来たからには真澄も当然言及しているだろう……と思うのだが、言及はない。春に再び岩崎を訪れる時の日記でも言及はない。単に興味がなかったのかなんなのか。

 この日の鹿島様は雪をかぶり、腰まで雪にうずもれて、それでも日を浴びてなんとも心地よさそうに見えた。





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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献

『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965

記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている



※この記事の写真は平成31年2月18日に撮影したものです



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翌日:天明5年1月11日/平成31年2月19日



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