前日:天明4年10月12日/平成30年11月24日
天明4年10月13日(新暦換算:11月25日)
秋田県羽後町西馬音内
【まちの日】
十三日。今日はここ(西馬音内)のまち(市が立つことを町という)である。鮭や鮭の卵(腹子)などを売る棚の上の、鮭の頭を一つ盗み、蓑の袖に隠したのを、店主の女が見つけて、
現在も羽後町では2・5・8の付く日に朝市が開かれている。
昨日の記事ではかがり火広場で行われていると書いたが、正確にはかがり火広場の道を挟んで向こう側のスペースが市の場所だった。
開催場所をあちらこちらと変えながら、西馬音内の市は300年も続いているそうだ。
【どす】
「どす(人をののしる言葉。または白子や業病の人をどすといっている)、盗人、盗ったものを出せ」
「いや、知らん」
「いうな、煙草を吹こうと家に入った隙に素早く手を出して盗むのをすき見(隠れて物の隙間からものを覗くことを言う。透見である)していた、」
さて大変だ。
ここで真澄は「どす」という方言を採取している。
真澄は「どす」と書いたが、羽後町歴史民俗資料館でその辺の話を聞いてみると、少なくとも現在の羽後町では「どし」というそうだ。
人をののしる意味は今でも変わらず、「乞食」を意味する「ほいと」がなまった「ほぇど」を強調する形で「どしほぇど」という風に使われると聞いた。罵り方言も奥が深い。
また、いわゆる業病のある家系のことを「どしまぎ」とも言ったそうだ。
【がァ】
「がァ(下摺女などがいつも言う言葉である)が盗んだのだ。金を払え」
ここで真澄が日記に書いた「がァ」とは、「んが」である。要は「てめェこの野郎」というニュアンスの二人称代名詞である。「んがよォ」という感じで使う。県央・県北だとどうなのかは不明だが、とりあえず秋田の県南で「んが」と言われたら、そこには少なからず悪意と敵意が籠っているので気を付けよう。
ちなみに「おまえ」がなまった「おめ」は、一見するときつい呼びかけに思えるがそのようなニュアンスはなく、単に「あなた」の砕けた言い方である。もっとも、これはこれで距離感を誤るとめんどくさいことになる。
【はたる】
「はたらずとも払うよ」 ※ここで女店主と盗人の会話は終わり、以降は真澄の地の文
はたるとは、責めることである。このような古い言葉が残っているのを、このような争いで今聞くというのもおもしろい。日が暮れる頃には風がやみ、雨が盛んに降り、そぎ板が朽ちて屋根が荒れ果てていたので、ひどく雨漏りして、家の中でいるところもなく、寝床を移動して蓑をとって着て、
「はたる」という言葉は今では聞かない。
【笹たいまつ】
笹のついまつ(松のやにを竹の葉に巻いて、灯火とした。これを松やにといい、また笹たいまつという)を灯して埋火に近寄れば、風が猛烈に吹き始め、家が揺れ、たくさんの家から人が起き出て、この風静まれと叫ぶ声がした。
【眞澄蓑着て】
私が蓑を着ているのを見て、主の老女はあきれて、足の具も笠も着なさいと笑った。夜が明けようという頃、しばしの眠りについた。
今までのほとんどの地域でそうだったように、真澄がどこに、誰の家に泊ったのかは日記に記述もなく定かではない。
が、とりあえず今までの宿に比べると環境はいまひとつだったようだ。
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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献
『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965
記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている
※この記事の写真は平成30年11月25日に撮影したものです
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翌日:天明4年10月14日/平成30年11月26日
【記事まとめ】『齶田濃刈寢(あきたのかりね)』――菅江真澄31歳・秋田の旅
初めて秋田の地を踏んだ菅江真澄と歩く、234年後のリアルタイム追想行脚
『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』
江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の描いた絵を辿り、秋田の県南を旅した紀行文
【地元探訪】記事まとめ
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【菅江真澄31歳・秋田の旅】『齶田濃刈寢』天明4年10月13日/平成30年11月25日
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