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※この記事はFAN AKITAプロジェクトページ「活動報告」への投稿と同内容です
菅江真澄と歩く
二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡
第一章
「栗駒の心臓を御室に見る」
時を遡ること2014年7月、紀行文「菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡」の第一歩を踏み出しました。
この時はまだ、「真澄が絵に描いた場所を全部巡ってやろう」という想いのもと、なんとなく行程を面白くまとめてみよう程度の考えしかありませんでした。この第一章を紀行文として書き上げたことが、後に続く九篇すべての出発点となり、また「どのように書くか」という雛形となりました。
さて、ひとまず以下の三枚の絵をご覧ください。
これらはいずれも絵図集「勝地臨毫 出羽国雄勝郡」の七巻(最終巻)に描かれたもので、一枚目には「駒形山」、二枚目には「駒ヶ嶽」、三枚目には「大日嶽」という記述があります。
当初、私はそれぞれまったく別の山を描いた絵なのだと考えました。しかし、雄勝郡には「駒形山」も「駒ヶ岳」も「大日嶽」もありません。この時の私は真澄の足跡をほとんど把握しておらず、さらに「山には多くの別名がある」という発想を持ち合わせていなかったため、「そもそもどこを/何を描いた絵なのか」すらわからないという有様でした。
二重三重の無知の闇を越えて、ようやく私はこれらの絵がすべて今日の「栗駒山」を描いたものだと気づきました。
きっかけは二枚目の絵の「酢河ノ温湯」という記述で、これはもしや今日の「須川温泉」のことではないか、ということはこれらの絵はすべて今日の「栗駒山」を描いたものではないか、と思い至ったわけです。ロクに文献も読まず、真澄研究の先達の皆様からすれば失笑物の経緯でしょう。とはいえ、とにもかくにも、この気付きは私の真澄理解にとって決定的なものとなりました。
今日の須川高原温泉。
まさしく、真澄の描いた温泉です。
私は栗駒山に何度か登ったことはありましたが、基本的に須川高原の登り口から最短ルートで山頂に行って帰ってきただけで、栗駒山に関してはまったくの無知でした。真澄の絵が栗駒山を描いたものだとはわかっても、須川温泉を除き、具体的にどの場所を描いたものかまではまるで見当が付きませんでした。
湯沢市の川原毛地獄や小安峡など、はじめから場所を特定できる絵ではなく、せっかくなら、新たな発見が得られる絵を最初に選びたい。
こうして、「菅江真澄と歩く」の最初の目的地は栗駒山になりました。
時に、平成26年。
真澄が雄勝郡を訪れ、「雪の出羽路 雄勝郡」と「勝地臨毫 出羽国雄勝郡」を記したのは文化11年。
真澄の来訪からちょうど二百年。季節さえほぼ同じ。
あまりのタイミングの良さに言い知れぬ感覚を抱きながら、「二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡」を目の当たりにするために、栗駒山――またの名を駒形山/駒ヶ岳/大日嶽――に足を踏み入れました。
栗駒山を知り尽くした方々に賛同を取り付けて同行してもらい、目指すは「勝地臨毫 出羽国雄勝郡」の最後を飾る絵に描かれた「御室」です。
「御室」に行き着く過程で何を見たのか、なぜ御室は「栗駒の心臓」なのか。
是非、完成した本の中でお確かめください。
【菅江真澄紀行文・本編紹介】第一章「栗駒の心臓を御室に見る」
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