前日:天明5年1月5日/平成31年2月13日


天明5年1月6日(新暦換算:2月14日)

秋田県湯沢市柳田 もしくは湯沢の町中




【七草刻むに】

 六日の夕べ、七草を“はやす”音が聴こえて、「とうとの鳥とゐなかの鳥と、わたらぬさきに、たんたらはたきにたらはたき」と声を上げて、菜包丁で叩く音が家ごとにどよめいていた。


 本文中の「はやす」は実際に真澄もそのように書いている。
 秋田弁の「はやす」は「囃す」でもなければ「生やす」でもなく、「切る」という意味だが、文脈からして明らかに真澄も「切る」という意味で「はやす」を使っている。ただ、文中に方言を登場させる際に真澄は必ずといっていいほど何かしらの注釈を入れているのだが、ここにその注釈はない。単に入れなかっただけか、それとも当時「はやす」は秋田以外でも「切る」という意味を持っていたのか。

 歌いながら菜切り包丁で七草をドカドカ刻む音が家々から聞こえてくるというのは、想像してみるになかなか面白い状況である。翌日は七草粥を食べる1月7日なので、前の晩から一斉に準備をしておくということなのだろう。


 なお、今日も場所の記述がないので、柳田の草彅家に帰ってきているのか、それともまだ湯沢に滞在しているのかは定かではない。たぶん草彅家に帰っていると思う。



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●『齶田濃刈寢』本文・参考文献

『秋田叢書 別集 第4』 秋田叢書刊行会, 1932
『菅江真澄遊覧記1』 内田武志・宮本常一編訳, 東洋文庫, 1965

記事中の【見出し】は『秋田叢書』にあるものをそのまま使っている



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翌日:天明5年1月7日/平成31年2月15日



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