201610280103小野小町史跡

 生まれたとか、死んだとか、通りがかったとか、座ったとか、温泉に入ったとか、色々合わせれば小野小町の伝承の残る場所は全国で百を下らないそうだ。

 私は各地の小野小町伝承の真偽についてとやかく言うつもりはない。
 ただ私の地元にはこんな話が伝わっている、というだけ。そして実際問題、伝承それ自体や関連する史跡の質・量ともに、雄勝町の小野小町伝承は全国に冠たるものがあると言っていいだろう。

 今回紹介するのは、湯沢市の観光パンフレット等でオフィシャルに語られている小町伝承である。
 もちろん内容的にアレでオフィシャルには含まれなかった伝承も色々とあるのだが、その辺の話はいずれ。


 ……


 …



 むかしむかし、大同二年(西暦807年)のこと。

 京の都から小野良実(おののよしざね)という名の貴族が、郡司として出羽国福富の荘桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)にやってくる。

 大同四年(809年)、良実は地元有力者の娘である大町子(おおまちこ)との間に子をもうける。

 その子の名は比古姫(ひこひめ)。後の小野小町である。
 比古姫を生んだ大町子は間もなく亡くなってしまう。

 比古姫自身は良実の教育により卓越した教養を身に着け、弘仁十三年、13歳で郡司の任を終えた良実と共に都に上る。

 天長二年(825年)、比古姫16歳の時、宮中に仕える。


 ―空白の二十年間、この間に比古姫は「小野小町」と呼ばれるようになる―


 承和十二年(845年)、小町36歳の頃、故郷が恋しくなり、出羽国福富の荘に戻る。
 深草少将が小町を追い、長鮮寺を仮住まいとする。

 深草少将は小町に恋文を送り、小町はその返事に歌を送る。

忘れずの 元の情の 千尋なる 深き思ひを 海にたとへむ

 返歌をもらった深草少将は喜んで小町に面会を求めるが、小町は応じず、このように返す。

「あなたが本当に私を心から慕って下されるなら、これから毎晩、一株ずつ芍薬を私の庭(異聞あり)に植えてください。芍薬が百本になった時、あなたの想いに応えましょう」

 こうして、深草少将の百夜通いが始まる。

 一方の小町はそのころ疱瘡(皮膚病)にかかっており、それが深草少将と顔を合わせられない理由にもなっていた。
 小町は疱瘡の快癒を祈願して磯前神社の泉で顔を洗っていた。

 毎晩芍薬を植えに通う深草少将の姿を見て、小町はこのように詠う。

かすみたつ 野をなつかしみ 春駒の 荒れても君が 見え渡るかな

 百日目の夜。

 深草少将が訪れるのを待っていた小町の元に悲報が届く。
 折しも大雨が続き、深草少将が増水した川に橋もろとも流されてしまったのである。

 自分のために深草少将は死んだのだと嘆き悲しんだ小町は、少将の亡骸を二つ森に葬り、供養のための板碑を長鮮寺に建立した。
 また、供養の地蔵菩薩を岩屋堂の麓に在って向野寺に安置して、芍薬には九十九首の歌を詠じた。

実植して 九十九本(つくもつくも)の あなうらに 法実(のりみ)歌のみ たへな芍薬

 そして小町は俗世を去り、岩屋堂という名の山中の洞窟に籠るようになった。
 小町は岩屋堂で一人香を焚き、自像を刻み、深草少将の菩提を弔う日々を送った。

 昌泰三年(900年)、小野小町は92歳で生涯を閉じる。

いつとなく かへさばやなん かりのみの いつつのいろも かはりゆくなり

 その亡骸は小町を憐れんだ里人により、深草少将が眠る二ツ森に葬られた。



 ……

 …


 これが雄勝町に伝わる小野小町の物語である。

 全国に様々な小野小町伝承が残るなかで、雄勝町の伝承の最たる特徴は、「小町に対する比類ない優しさ」であると私は思う。
 そしてこれこそが「秋田県湯沢市雄勝町こそが小野小町の出生地である」と私が確信する理由にも繋がっているのだが、その辺の話はまたいずれ。


 それでは次回から、小野小町伝承の時間軸に沿って、小町史跡を辿っていこう。


 とっぴんぱらりのぷう。



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