前回の続き。

 大枚を叩いて購入したHD595は、私にある確信をもたらした。
 「再生機器の音がよくなれば、好きな音楽をより楽しめるようになる」ということだ。
 音楽だけではない。「音の良さ」という要素は、容易に、映画やアニメといった映像に対しても巨大な威力を発揮した。映像を見る際の視点が完全に塗り替えられたと言っていい。「音」が、これほどまでに映像に強烈な意味を与えるものだとは思いもしなかった。音響、「サラウンド」というものが何故あるのか、何の為にあるのか、全身全霊で理解した。映像はむしろ音によって本物になるのだと私は気付いた。激甚な衝撃だった。
 映画でも音楽でもアニメでもゲームでも何でもいい。愛してやまない数々の作品、その感動をさらに増幅できる可能性を私は見た。作り手でもない、受け手、単なる消費者にすぎない私が、より能動的に作品を楽しめる可能性を得たのだ。
 オーディオ=再生環境に投資することで、より深い感動を得られる。そこで再生されるソースは何だっていい。そこに貴賎はない。
 より深い感動、オーディオとはそのためにこそある。

 オーディオは楽しい。機器を揃え、システムを構築する。無限に等しい組み合わせの中から、悩みに悩みながら自分に最適なものをひとつひとつ選び出し、自分だけの環境を作り上げていく過程は、正直言ってそれだけで楽しい。作品から得られる感動を増幅するという根本的な目的があるとはいえ、ただひたすらに音質を追求し、機器そのものを愛でる楽しみというのも間違いなくある。
 だからこそ、昨今の「オーディオ」という言葉に対して醸成されているイメージを非常に残念に思う。
 「オーディオカルト」などと揶揄される、例えば音質の追及のためにケーブル一本に巨額の投資を行い、音の変化に一喜一憂し狂奔する様。残念ながら、オーディオ業界自身がその様相を肯定し、盛んにその方向へと誘導していると言われても仕方がない。「頭おかしいんじゃね?」という至極まっとうな外からの意見に背を向け、ひたすら内に内に閉じていっているという現状は否定できない。とはいうものの、ケーブルでも何でも、「音をよくするために」高額な投資をしてもらわない限り、業界そのものが存続し得ないというのも事実であり、難しい。

 ただ、どこまで行っても、オーディオとはあくまで手段であるべきだ。少なくとも私はそう思う。
 どうか、「オーディオ」という趣味を、印象に残りやすい表層だけを見て「存在するかどうかも怪しい音の変化を求めて意味不明な高額投資を繰り返す狂信的行為」と断じないでほしい。
 オーディオの根本には、自分が愛する作品からより深い感動を得ようとする想いがあることを知ってほしい。

 私にとって、オーディオはあくまで手段で在り続けた。
 もちろん、多くのいわゆるオーディオマニアと呼ばれる人種がそうであるように、オーディオ機器そのものに魅力を覚え、手段――すなわち高音質の追及が目的化するような意識の局面も数えきれないくらい経験した。今だってそうだ。新しいスピーカーが、アンプが、プレーヤーが発表されるたび、私の心は焦がれて物欲にまみれる。
 ただ、私自身すごく幸運、あるいは幸福だったのは、前述した「オーディオとは自分が愛する作品から、より深い感動を得るためにこそ」という信条を失わなかったことだ。どんな機器を買おうが、どんなシステムを組もうが、根底には常にこの想いがあった。
 HD595が解きほぐした時の傷痕の深淵に、K701によって奏でられたKOKIAの歌声に心震え、初めて組んだサラウンドシステムで聴いた鴉-KARAS-第一巻冒頭、プライベート・ライアン冒頭の上陸シーンで筆舌にし難い昂揚を得た。感動こそが私のオーディオ遍歴の根底にあった。

 胸を張って言える。
 オーディオを始めて本当によかった。