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言の葉の穴で扱っていた【ホームシアターでゲームをしよう!】関連のコンテンツは、今後は新サイト【Game Sounds Fun】で扱うので、そちらをご覧ください。
Game Sounds Funの発足にあたって
【追記おわり】
『The Last of Us』。
通称ラスアス。
2013年6月発売。プラットフォームはPS3。
明くる2014年8月でPS4にてリマスター版が発売。映像面のブラッシュアップに加えて追加DLCも入った事実上の完全版。今買うならこっち。
ノーティードッグ開発の、三人称肩越し視点のアクションアドベンチャーゲーム。
ゾンビキノコ菌のパンデミックで文明が崩壊した世界で、ジョエルというおっさんとエリーという少女の旅の軌跡が描かれる。
広義にはゾンビゲーに含まれると思われるが、ゾンビを相手にするのがメインのゲームではない。
まずはトレーラーをどうぞ。
本来なら綺麗なPS4版のトレーラーを貼りたいところだが、初っ端から最大級のネタバレが含まれるので自重。
本作は評価が分かれるとも言われているが、200を越えるメディアでGOTYを獲得し、現にゲーム史上最高級の評価を受けていることもまた確かである。
PS4が2013年11月に発売されたことを考えれば、本作が発売された時期はPS3の最後期にあたり、まさにPS3の有終の美を飾るにふさわしい作品となった。
本作の評価についての議論は、つまるところ「映画的なゲームは純粋にゲームとしてどうなのか」という点に集約されるようだ。
前回の記事でも書いたように、私はゲームとは「ゲームプレイそれ自体に面白さを見出すゲーム」と、「ストーリー要素が濃いゲーム」の二つに大別できると考えている。でもって、本作のような「映画的なゲーム」は後者の発展形にして現在における到達点だと考えている。
とにかく、私が求めるのはひとえに絶対的な「面白さ」である。ゲームプレイもストーリーもシステムも映像表現も、ゲームのあらゆる要素は「おもしれー!」という体験のためにあると思っている。
純粋なゲームプレイに特化したゲームと映画的なゲームでは面白さの「種類」は違うかもしれないが、それでもなお、「面白い」という点においては同じ。競うべきは面白さの種類ではなく、「絶対値」のはず。
……とまぁ、この辺の話はし始めればきりがないし、不毛なので、やめた!
一般的に何をもって「純粋なゲーム」とするのかなんて知らんし興味もない。
さて、ここからは一昔前のIGNを参考にして、「プレゼンテーション」・「サウンド」・「ゲームプレイ」の三項目を、「ホームシアターで遊ぶ」という視点を踏まえて語ってみたい。
各項目の内容はこの記事を参照。
今回は【ホームシアターでゲームをしよう!】の第1回ということで試験的な意味合いもあり、今後どうなるかはわからないが、とりあえずこの方向で書いてみる。
いわゆる普通のゲームレビューとはちょっと異なるので、そのつもりで。
『The Last of Us』
○プレゼンテーション
初めてPS3で『RESISTANCE〜人類没落の日〜』をプレイした時、「とうとうゲームはここまで来たのか!」と感激したものだった。
PS2時代のSDからHD(720P)へ解像度は上がり、ポリゴンは増え、テクスチャはきめ細かくなり、画面の密度は激増した。それに加えてサウンドの強烈な進歩により、「映画的なゲーム」と呼ぶための一線を越えたという印象を受けた。
それと同時に、別の限界が強く意識された。
PS3になって解像度が上がり、ポリゴンが増え、テクスチャが細かくなったことは確かだ。それでもなお、あるいはそのせいでかえって、そこかしこに現れるジャギー、いたるところで角ばるポリゴン、露骨なドットを見せるテクスチャが気になるようになった。
ゲームの世界や、そこに登場する個々のキャラクターやオブジェクトについて、映像としての情報量不足を見るたびに、「凄くなったけど、やっぱりゲームなんだな……」と、ある種の冷めた感覚を抱いてしまった。「不気味の谷」という言葉を安直に使いたくはないが、この感覚は概ねそれに通じるように思う。もっとも、この感覚は極めて一時的なもので、すぐに「ゲームを遊ぶ楽しさ」に掻き消されてしまうこともまた確かだが。
つまるところ、ゲームは演出や体験において「映画的」にはなれても、純粋な映像のクオリティにおいて「映画」にはなれなかったのである。
少なくとも、まだ、この時点では。
この一線は驚くほど早く、しかもあっけなく凌駕されることになった。
個人的にそれを果たす作品は『GOD OF WAR III』(以下GOW3)の他にあるまいと信じていたが、思わぬ伏兵がいた。
それが『アンチャーテッド 黄金刀と消えた船団』(以下アンチャ2)である。
アンチャ2はプレイしていて、最初から最後まで、ついに映像表現において「やっぱりゲームなんだな……」と幻滅することがなかった。
キャラクターのモデル、アニメーション、環境、オブジェクト、エフェクトは、もはや「所詮ゲーム」なんて感情を抱かずに済むクオリティにまで高められていた。確かにジャギーはあるし、技術的な限界もある。嘘やごまかしもある。それでもなお、感動が勝った。そして確固たる技術力をベースにした映像表現と、優れた映像表現があるからこそ可能になる、それと不可分に結び付いた濃密なストーリーテリングも、新たな時代の幕開けを強烈に印象付けた。
アンチャの一作目は凄いと思いつつも「やっぱり……」だったため、凄まじい進化には度肝を抜かれた。そして度肝を抜かれたのは私だけではなかったようだ。
PS3の発売から三年足らずで、再び「とうとうゲームはここまで来たのか!」という感激を味わった。
そして、『The Last of Us』において、次なる一線が越えられる様を見た。
キャラクターの表現力の決定的な向上である。
アンチャでも、GOWでも、ネイトやクレイトスさんのモデリングは素晴らしいの一言に尽きる。しかし、それらは得てして「超人たちが非現実的な状況で超人的な活躍を見せる」といった類のゲームである。キャラクターの表情は良くも悪くも非現実的で(クレイトスさんは基本怒ってばっかりだし)、ストーリーテリングはあくまで演出や展開によって行われてきた感がある。
それに対しラスアスでは、とうとうキャラクター自身の演技によってストーリーテリングが行えるようになった。これは極め付きに優れたキャラクターモデルとフェイシャルアニメーションの併せ技が成し遂げた偉業である。しかもラスアスのフェイシャルアニメーションはいわゆるフェイシャルキャプチャーではなく手付けだそうだから本当に大したものだ。ノーティードッグのアニメーターの腕前には平伏するしかない。
アンチャ2、続編のアンチャ3を経てノーティードッグが制作したラスアスは、もはや疑いようもなくPS3最高峰のグラフィックを実現している。私はグラフィック技術の詳細を語ることはできないが、もう「見ればわかる」というレベル。もちろん、100インチのスクリーンに映しても「足りてない感」はまったくない。
オープニングの時点で技術的到達度の高さは一目瞭然である。カットシーンの異様なクオリティの高さに驚愕し、動かせるようになった時に「コレ動かせるの!?」と再び驚愕する。
ゾンビキノコ菌のパンデミックから20年、文明崩壊後のアメリカの姿は物悲しく、薄汚く、厳かで、美しい。行ける場所すべてに足を運び、そこで起きたことに思いを馳せたくなるほどに。
ゲームのオープニング。
在りし日の主人公ジョエルと、娘のサラ。
尋常ではなく素晴らしいキャラクターモデルと、親子の絆と心の機微をありありと感じさせる表情。非現実的な状況下ではなく、現実の延長線上で繰り広げられる迫真の「演技」。まさに「ゲームのキャラクターの演技によってストーリーが語られる」様。
そしてオープニングのクライマックスを目の当たりにした時、私はしみじみと感じ入った。
「あぁ、とうとうゲームはここまで来たのか」と。
アリストテレスの悲劇論を思い出す。
ゲームキャラクターの表現技術において「リアル」という言葉を使うことは簡単だが、それは単にポリゴンが増えたとか、その手のキャラクターの造形だけを指すのではない。
キャラクターの表情、キャラクターの演技、そこから滲み出すキャラクターの感情こそが「リアル」なのである。ラスアスが表出したリアリティは、ついぞゲームでは体験できなかったものだ。
そして一線を越えたリアリティがあるからこそ、プレーヤー自身の感情もまた、かつてないほど強く激しく揺さぶられる。
旅を通じて数多の死地を潜り抜けていくジョエルとエリーは次第に親子のような、あるいは親子以上の絆で結ばれていく。その過程で描かれるドラマが、プレイヤー、もとい私を捉えて離さなかった。幾度となく絶望的な状況に直面して懊悩するキャラクターの感情の機微は常に私の心を動かし、滅亡した世界の中に時折姿を見せる美しい光景や、徐々に打ち解けていくジョエルとエリーの心の交流は私にとっても救いだった。
ゲームは3DCGが使用可能になった時から、演出、カメラワーク、カット割りといった点では、潜在的に映画そのものの表現がリアルタイムで行えるようになった。映画的なゲームの萌芽とでも呼ぼうか。
ゲーム機のマシンスペックや制作技術の向上によって、キャラクターモデルや個々のオブジェクト、美術面の質的向上が果たされ、ゲームは映像のクオリティでも映画と遜色のない表現力を獲得した。アンチャ2やGOW3が越えた一線である。
そして、ゲームはついにキャラクターの演技でストーリーテリングができるようになった。この意味で、ラスアスは記念碑的な作品である。ラスアス以前にフェイシャルキャプチャーを導入した作品もあるが、総合的な完成度ではラスアスに及ばないように思える。ラスアスのすぐ後に出た『BEYOND: Two Souls』なんかは、モーションキャプチャーとフェイシャルキャプチャーの併せ技で素晴らしいリアリティを実現した好例と言える。
こうして、ラスアスはゲームであると同時に、完全な映画としての素質も手に入れた。
そして映画なのだから、ホームシアターとの親和性はそりゃもう、言うまでもなく最高である。
本作のあらゆる映像表現や美術、キャラクターの「演技」はまさに映画としての鑑賞に堪えるものである。それどころか、物語にしても演出にしても、映画であることに胡座をかいている映画よりも遥かに完成度が高い。プレイする側も「所詮ゲーム」などという意識はかなぐり捨てて、用意し得る最高の環境で味わってほしい。
○サウンド
ラスアスは映像だけでなく、サウンドにおいても最高レベルの完成度を達成している。
声優陣の演技や音楽が素晴らしいのはもはや当然として、ここでは音響の素晴らしさを紹介したい。
本作は基本的に静かなゲームである。
印象に残る数々の音楽が用意されているとはいえ、カットシーンや重要な戦闘時以外はあまり音楽が流れず、環境音が主体の音響となる。
この環境音の密度が凄まじく高い。廃墟の中を吹き抜ける風、風に揺れる木々、滴り落ちる水、遠雷、人知れず燃える炎、生きものの気配……それらすべてが、マルチチャンネルを最大限活用し、強烈な存在感を伴って表現される。人間が滅びても、世界はこんなにも音に溢れているのだと実感する。
クリッカーと呼ばれる状態の感染者がいる。
クリッカーは感染の進行により頭部が肥大化して視覚を失う代わりに聴覚が発達している。そして「クリック音」、すなわち「クキキキッキキッキキキ……」的な音を出し、反響定位によって人間の位置を捉え、襲い掛かる。
ほとんど真っ暗な建物を進んでいると、どこからかクリック音が聞こえてくる。奴らだ。
聞き耳(後述)を立てて奴らを探すも、索敵範囲外のようで姿を捉えることができない。なおも聞こえるクリック音。闇の中を慎重に歩き、それとともにクリック音が聞こえてくる方向も変わる。あらゆる効果音は視点移動と完全に連動し、このうえない臨場感を醸成する。
あぁ、居る、居る……それも一人二人ではない。十人近い感染者やクリッカーが、うなり声やクリック音を出しながら辺りを歩き回っている。
こういう時に銃を使うのは最悪の選択。最初の銃声が響いた瞬間に気付かれ、数に押し潰されてあっという間に八つ裂きにされる。
よって、抜き足差し足忍び足でなんとか通り過ぎようとするのだが、そういう時に限って何かしらのイベントが発生して気付かれたりする。
そうなったら、とにかく逃げる。エリーと一緒に悲鳴を上げながら逃げる。後ろからは感染者が追いかけてくる。後ろのスピーカーから鳴り響く感染者の足音と叫びに追い立てられる。掴まれば確実に死ぬ。振り向いて状況を確認する余裕なんてないのでとにかく逃げる。
どうにか逃げ切ったとわかった瞬間、思いっきり深呼吸している自分に気付く。
マルチチャンネル・サラウンドの恐るべき活用。サラウンド効果を最大化すべく、ゲーム内でスピーカー配置とのマッチングができるほど音にこだわっているだけのことはある。
さらに設定でダイナミックレンジ(音の大小の差)をマックスにすれば、銃声や爆発音は下手なアクション映画を凌駕するほどの威力を軽々と吐き出すようになる。使用する音響機器や環境に合わせ、ダイナミックレンジを調整できるのも嬉しい。
ちなみに、ラスアスは日本に入ってくる洋ゲーのローカライズとしては珍しく、英語音声と日本語音声をどちらも選べるようになっている。吹き替え音声も声優陣の熱演により素晴らしいものに仕上がっているので、是非英語で一周、吹き替えでも一周してもらいたいところだ。
ダイアローグ、音楽、効果音、マルチチャンネル・サラウンドの徹底した活用。
ラスアスのサウンドは全方位的に、純映画的に極めて素晴らしい。
○ゲームプレイ
使えるものを探して周囲をうろつき、橋をかけたり梯子を下ろしたりスイッチを入れたりしながら先に進み、時々キノコ感染者や敵対する人間と遭遇して戦闘に突入。ラスアスは基本こんな風に進行する。
純粋なゲームプレイに関して言えば、ラスアスはTPSとして優れた完成度を持っているが、それ自体で革新的というほどではない。
例えば、メニュー画面を開いてアレコレしている間にもリアルタイムに時間が流れることで緊迫感が高まる仕組みは『Dead Space』が実証してくれたし、ステルス要素もさして珍しいものとは言えない。AIの柔軟性やクラフト要素など優れた点は多いが、要は今風の手堅いTPSである。
そんな中で、注目に値するシステムとして「聞き耳」があげられる。
これは壁の向こうや上下の階にいる敵対者の「音」を捉えることで、その姿を視覚的に表示させるというもの。弾薬が貴重な本作ではステルスキルが有効であり、また戦闘自体を回避する場合においても敵の位置が把握できるため、聞き耳はある意味ゲームプレイの生命線となる。
音響的には聞き耳を使うとBGMや環境音がふっと遠ざかり、敵対者の声や足音がクローズアップされる。その状態で敵対者の姿は壁などを通り越して確認できるようになるのだが、視点移動によってカメラに捉える必要があることに変わりはない。カメラ外の敵の居場所を探るには音がどこから聞こえるかが非常に重要で、プレーヤー自身がまさにジョエル同様聞き耳を立てることになり、必然的に没入感が高まる。これはホームシアターの音響システムが大いに活躍する時でもある。
純粋なシューティングゲームとして見れば、それほど戦闘にバリエーションがないことも確かだ。この辺も評価が分かれる一因なのだろう。ゾンビゲーだと聞いたのにほとんど弾がないし、そもそもゾンビと遭遇する機会も少ないとか何とかで。
とにかく、ラスアスはゲームプレイにおいてもリアルでシビア。
文明崩壊後の世界で弾薬は希少で、無駄撃ちをしていればあっという間に弾切れを起こす。弾がもったいないので棒切れや鉄パイプや工作で作ったナイフを使うが、それらは消耗品で回数使用で壊れる。結局弾薬類はもったいなくて最後まであまり使わないまま終わってしまったりする。
キノコ感染者に掴まると反撃の手段がなければ噛まれて即死。あるレベルの感染者に掴まれば問答無用で即死。そしてある意味感染者以上に恐ろしいのが銃を持った人間(生存者達)。対処を誤ると寄ってたかってなぶり殺しにされる。
残念ながらジョエルとエリーが協力して必殺技を繰り出すようなこともない。
ただ、ゲームプレイはシビアであっても決して不条理ではないところが素晴らしい。ジョエルはプレーヤーの操作に対して機敏に反応し、動かしていてストレスを覚えるようなことはない。
操作に慣れれば、ステルスキルだけで次から次へと感染者を始末し、数十人の生存者をあっという間に殲滅するジョエルの姿が見られる。
生き延びることの過酷さがとことん語られる本作でこのジョエルの強さはいったい何なんだと思わなくもないが、まあいいじゃないか。ゲームなんだし。
【ホームシアターでゲームをしよう!】的結論
The Last of Usは「映画的なゲーム」の理想形を提示する。
すなわち、紛れもないゲームであり、同時に紛れもない映画であるということ。
ストーリー、映像表現、サウンド、ゲームプレイ、ゲームを構成するあらゆる要素が極めて高いレベルで作られており、純粋にゲームとしても、そして「ホームシアターで楽しむゲーム」としても本作を越えるのは非常にハードルが高い。
PS4世代になり、グラフィックだけならThe Last of Usを凌駕する作品も少なくはない。自然物、特に植物や流れる水の表現で、ゲームのリアルタイムグラフィックがまだまだ進化の余地を残していることも確かだ。
ただ、今後どれだけ映像表現が進歩し、ゲームにさらなるリアリティが備わっていくにしても、一つの偉大な到達点として、The Last of Usは長く記憶される作品となるだろう。
クライマックスでエリーが見せた表情は、忘れられるものではない。
『The Last Of Us』
ホームシアターとの親和性:100点
すべてのゲーム好きとすべての映画好きに心の底から全力推薦
【ホームシアターでゲームをしよう!】 記事まとめ