【考察】シン・ゴジラとヤマタノオロチ、そして現代のスサノオ神話

IMAXでシン・ゴジラを見納めできてよかった。
これだけでも遠路はるばる東京(川崎)に出てきた甲斐があったな。

というわけで今更ながら、日本神話という観点から『シン・ゴジラ』を読み解いてみる。
当然様々な切り口があるにせよ、あくまでも日本神話の枠組みを生かす方向で。

一応言っておくが、ネタバレ全開である。

 

はじめに:ヤシオリ作戦とアメノハバキリ

シン・ゴジラを見て、それなりに考察したり考察サイトを巡ったりするような人なら、ゴジラの凍結を目的とした「ヤシオリ作戦」と、特殊建機小隊の呼称である「アメノハバキリ」が何を意味するかは既に御存知と思う。

はたしてこの二つの言葉に劇中でピンときた人はどれくらいいたのだろうか。

私は「スサノオ/須佐之男/素戔嗚」「ヤマタノオロチ/八俣遠呂智/八岐大蛇」退治に際して「よく醸した酒」を用いたことは知っていたが、恥ずかしながらその酒の名が「ヤシオリ」ということは知らなかった。

そのため初見時は、「ヤシオリ」とは「折り“紙”」が暗号解読の糸口になったことから、「八枚(たくさんという意味)の”オリ”ガミ」に加え、かの有名な「ヤシマ作戦」を意識した名称だと思った。

なるほど確かに、古事記の原文には「八鹽折之酒」、日本書紀の原文には「八醞酒」とある。古事記にせよ日本書紀にせよ、現代語訳しか読んでいないからこういうことになるのだなあと反省。

一方で、「アメノハバキリ/天蝿斫剣/天羽々斬」については知っていたので、特殊建機小隊がそう呼ばれるに及んで、クライマックスまで含む『シン・ゴジラ』という作品の諸相が一気に私の中で繋がった。

 

すなわち、『シン・ゴジラ』におけるゴジラはヤマタノオロチであり、そして『シン・ゴジラ』は「現代のスサノオ神話」だということだ。

 

シン・ゴジラと日本神話

『シン・ゴジラ』に出てくる「ヤシオリ作戦」と「アメノハバキリ」という言葉が日本神話、それもスサノオのヤマタノオロチ退治のエピソードから取られていることは、多くの人にとってもはや自明の事実だろう。

 

ヤシオリ作戦――ゴジラに血液凝固剤を経口投与してその凍結を図る。

八塩折之酒――八つの甕に入れておき、ヤマタノオロチに飲ませて眠らせる。

 

アメノハバキリ――ヤシオリ作戦において、血液凝固剤の経口投与を担う特殊建機小隊。

天蝿斫剣――スサノオが眠ったヤマタノオロチを斬り刻んだ際に用いた剣。

 

アメノハバキリについては微妙に使われ方が異なるが、「ゴジラ/ヤマタノオロチを無力化/退治する」という意味では大枠は共通する。単に名前だけを借用するに留まらない、ヤマタノオロチ退治の見事な変奏と言える。

 

これだけを見れば、「さすがDAICON FILMでヤマタノオロチをネタにした特撮を作っただけのことはあるな!」というスタッフへの賛辞で終わるところだ。

しかし、このヤシオリ作戦にとどまらず、『シン・ゴジラ』という作品自体がスサノオによるヤマタノオロチ退治の大いなる変奏、いわば「現代のスサノオ神話」だというのがこの記事の肝である。

 

シン・ゴジラとヤマタノオロチ

ヤシオリ作戦・アメノハバキリという言葉、そして展開から、『シン・ゴジラ』におけるゴジラとヤマタノオロチの関連性は明らかである。

それだけでなく、ゴジラのデザインそれ自体にもヤマタノオロチの面影がある。

 

爾問「其形如何。」答白「彼目如赤加賀智而、身一有八頭八尾、亦其身生蘿及檜榲、其長度谿八谷峽八尾而、見其腹者、悉常血爛也。」

古事記原文・引用元:http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_03.html

「その(ヤマタノオロチの)姿形はどのようか」と(スサノオが)尋ねると、「その目は赤かがちのように赤く、頭と尾は八つ、その身には苔、檜、杉が生え、八つの山と谷にまたがるほど大きく、その腹を見ると、ことごとく血で爛れている」と答えた。

シン・ゴジラ 公式サイト

腹。

 

ゾンビ化して旦那を追いかける女房的なアレやお姉ちゃんが引きこもったせいで生じた災い的なアレもいるにはいるが、日本最古の「人智を超越した力を持ち、直接的かつ明確に災いをもたらす存在」としては、やはりヤマタノオロチが真っ先に思い浮かぶ。

いわばヤマタノオロチは日本文化における「怪物の元祖」であり、特撮という文脈で特別な意味を持つ「怪獣」の原型でもある。

 

作中、ゴジラは度々「神の化身」と呼ばれている。

そしてヤマタノオロチも、他ならぬスサノオにこう言われている。

「あなたは恐れ多い神様です。おもてなし申し上げます」と。そこで八箇の甕の酒を、八つの口毎に入れられた。その蛇は酒を飲んで眠った。素戔嗚尊は剣を抜いて斬られた。

『全現代語訳 日本書紀(上)』 宇治谷 孟

三貴子の一柱にして、日本神話における蛮勇の象徴のごとく扱われるスサノオですら、ヤマタノオロチと真正面から戦うことはしなかった。ゴジラを無力化する作戦に「ヤシオリ作戦」という名を与えた矢口蘭堂の心中はどれほどのものだっただろうか。

 

ヤマタノオロチは日本文化の根底に刻み込まれた「怪獣の原型」である。

1954年に誕生したゴジラは、当時の人類が直面した核の脅威を具現化した「怪獣」である。加えて、劇中で初代ゴジラは「恐竜」に比定されている。「竜」という言葉に触れた時、日本人の無意識の中では、かの畏るべき大蛇≒竜が首をもたげている。

そして、両者は『シン・ゴジラ』において、明確に同質の存在として描かれるに到ったのである。

 

シン・ゴジラとスサノオ

『シン・ゴジラ』が「現代のスサノオ神話」だと言うからには、ヤマタノオロチだけでなく、スサノオがいなければならない。

そして、『シン・ゴジラ』におけるスサノオとは、特定の個人を指すのではなく、巨災対や自衛隊をはじめとする「ゴジラに対抗しようとするすべての日本人」だと考えられる。

 

しかし、ここでひとつ注意しなければならない。

この「ゴジラに対抗しようとするすべての日本人」は、最初からスサノオだったわけではない。

彼らはゴジラによる大破局を経験することで、スサノオに「成る」のである。

「(略)以前私共には八人の娘がありました。毎年八岐大蛇のために呑まれました。今この娘(奇稲田姫)が呑まれようとしています。しかしのがれる方法もありません。それで悲しんでいるのです」

『全現代語訳 日本書紀(上)』 宇治谷 孟

ここで悲しんでいるのは奇稲田姫の両親のアシナヅチ・テナヅチ夫婦である。

彼らは既に甚大な被害を受けている。スサノオが彼らの前に現れるのは、ヤマタノオロチという災いが猖獗を極めた「後」に他ならない。

彼らの嘆きを聞き、スサノオはヤマタノオロチ退治へと向かっていく。

 

『シン・ゴジラ』では、あまりに想定外なゴジラの一度目の上陸により、巨大な被害が発生する。第四形態再上陸の際は「生物である以上殺せる」という観測に基づいてタバ作戦を展開するも、失敗。さらに大型貫通爆弾による爆撃を行うも、抹殺には到らず。逆に「神のごとき」偉力を発揮したゴジラにより、東京は未曽有の破局を迎える。

事ここに到り、人々の意識は完全に切り替わる。

矢口蘭堂はゴジラを「真に人智を超越した存在」とあらためて認め、それでもなお、立ち向かっていく意志を示した。

それはまさに、度重なるゴジラという災いの果てに、「ゴジラに対抗しようとするすべての日本人」が「スサノオに成った」瞬間である。『シン・ゴジラ』におけるスサノオは特定の個人を指すのではないと先述したが、その「象徴」を一人挙げるなら、やはり矢口蘭堂を置いて他にあるまい。

 

さて、『シン・ゴジラ』を「現代のスサノオ神話」と捉えるうえで、ここからスサノオとヤマタノオロチに並ぶもう一人の存在が俄然重要になってくる。

クシナダヒメである。

 

シン・ゴジラとクシナダヒメ

クシナダヒメ/櫛名田比売/奇稲田姫

クシナダヒメはアシナヅチ・テナヅチ夫婦に残された最後の娘であり、スサノオに救われ、後に彼の妻となる。クシナダヒメを救い、彼女と結婚するために、スサノオはヤマタノオロチを退治する必要があった。

スサノオとヤマタノオロチの存在は『シン・ゴジラ』の作中から容易に読み取れるが、それに比べてクシナダヒメの存在は明確ではない。「姫」という語感、「後のスサノオの妻」ということから、作中におけるヒロイン的な女性に比定してしまいそうだが、無論そんなに単純なものではない。

 

私が考えるに、『シン・ゴジラ』におけるクシナダヒメとは、矢口蘭堂/巨災対/自衛隊/日本政府――「ゴジラに対抗しようとするすべての日本人」が守ろうとしている東京都民/日本国民であり、彼らが内包する日本の未来である。

 

ゴジラによって東京都民は物的・人的両面で甚大な被害を受けた。首都機能の消滅は国家の崩壊に直結するうえ、撒き散らされた放射線をはじめとするおびただしい問題によって、国民全体がさらなる潜在的脅威に晒されている。

スサノオの来訪以前に、アシナヅチ・テナヅチ夫婦の娘はクシナダヒメをただ一人残してことごとくヤマタノオロチに呑み込まれてしまった。

 

それでも、都民/日本国民が死に絶えたわけではない。まだクシナダヒメが残っている。

そのクシナダヒメを守るためにこそ、矢口蘭堂/スサノオはゴジラ/ヤマタノオロチに立ち向かう。

そしてヤシオリ作戦は成功し、スサノオは見事ヤマタノオロチを退治する。

 

スサノオ神話はこれで終わりではない。

クシナダヒメを妻にしたスサノオは、出雲の須賀に宮を立て、多くの神々の祖となり、それはやがて日本という国作りの礎となっていく。

矢口蘭堂は言った、「今やめるわけにはいかない」と。赤坂秀樹は言った、「せっかく崩壊した首都と政府だ、まともに機能する形に作り変える」と。

クシナダヒメ――都民/国民と共に、いまいちど東京都を、日本という国を作っていくのだという気概は、彼らがスサノオであるために絶対に欠かせないものだ。

なお、作中で東京の破滅と引き換えに熱核兵器をもってゴジラを滅却せざるを得ないという旨の発言をする赤坂秀樹も、国家の存続/日本の未来を第一にを考えているという点では、まぎれもなくスサノオに連なる者だと言える。

 

現代において、ゴジラを征し、英雄と成り得るのは超絶的な力を持った神々ではなく、決して諦めず邁進する人間たちである。『シン・ゴジラ』はまさに、ゴジラと、今を生きる日本人によって織り成された、「現代のスサノオ神話」と呼ぶにふさわしい。

なんとストレートな希望に満ちた物語だろう。庵野監督らしくもない。

 

こうして、はじめから終わりまで一貫してスサノオ神話の流れに沿いながら、『シン・ゴジラ』は幕を閉じる。

最後に、凍結したゴジラの尾から出現した人型の異形を映しながら。

 

ラストの「尾」が意味するもの

やっぱりというかなんというか、ストレートな希望に満ちた物語のままでは終わらないのが庵野監督である。

 

『シン・ゴジラ』のラスト、ゴジラの尾から出現した人型の異形。

見る者に巨大な不安感を与え、巨神兵やらエヴァやら数多くの考察が行われているが、これもまた、スサノオ神話の枠組みの中で理解・解釈することが可能である。

 

素戔嗚尊は、腰にさしていた十握の剣をぬいて、ずたずたにその蛇を斬った。尾を斬るとき剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割いてごらんになると、なかに一つの剣があった。これがいわゆる草薙剣である。――一書にいう。元の名は天の叢雲剣。大蛇のいるうえに常に雲があったので、かく名づけたが、日本武尊に至って、名を草薙の剣と改めたという――

『全現代語訳 日本書紀(上)』 宇治谷 孟

結論から言えば、ラストでゴジラの尾から出現した人型の異形とは、天叢雲剣である。

ゴジラがヤマタノオロチである以上、その尾から現れるものは天叢雲剣に他ならない。

 

巨災対がゴジラの既存の生物とあまりにも隔絶した性質に辿り着いた時、矢口蘭堂は、その解明が人類にもたらすであろう種々の恩恵を「福音」と表現した。

福音。エヴァンゲリオン。

 

ゴジラの凍結に成功した人間が真っ先にすることといえば、東京の復興はもちろんだが、とにもかくにもゴジラの研究に違いない。

ゴジラの力の源泉、ゴジラを「神の化身」たらしめた生物学的機能も、いつかは解明されるだろう。そして様々な技術の中で利用され、応用され、矢口蘭堂の言うように、人類に「福音」をもたらすだろう。

人間は「ゴジラの力」を得て、さらに強大な存在となる。

 

ゴジラの側から考えてみる。

『シン・ゴジラ』のゴジラは常に進化する。より強大な、より完全な存在になるべく進化し続ける。

ゴジラはヤシオリ作戦で血液凝固剤を流し込まれた時、悟ったはずだ。「足元に群がるちっぽけな生きものは、実は自分よりも遥かに恐るべき存在である。彼らに対抗するためには、自分もさらなる進化が必要だ」と。

その瞬間、ゴジラは次なる進化の形態を選ぶために、自らの体内で、様々な進化の可能性をいわば「競争」させた。そして最後に残った「最も強大にして完全な形態」に進化しようとしたが、時既に遅し、原子炉スクラムによる凍結の方が早かった。

ゴジラの体内で「競争」に勝ち残っていた進化の可能性たちは、凍結から逃れるべく胸部の原子炉から最も遠い尾の先端までやってきて、形まで成したが、とうとう可能性のままで終わってしまった。とはいえ、勝ち残っていた可能性はみな、ゴジラの背鰭を生やした「ヒトのカタチ」(エヴァ風の表現)をしていた。

これはまさに、ゴジラの力を得た人間がやがてゴジラをも超越することを示唆している。

 

ヤマタノオロチを退治したスサノオは、その尾から天叢雲剣を得る。天蝿斫剣の刃が欠けたということは、天叢雲剣の方が従来のものより優れた剣であることを意味する。

天叢雲剣の記述は実に多くの意味を孕んでいるが、つまるところ天叢雲剣とは「力」の象徴だと捉えられる。

後に天叢雲剣はヤマトタケルを危機から救って草薙剣と名を変え、かつて神を屠って手に入れた「力」は三種の神器の一となり、神代から人代へ受け継がれていく。

 

『シン・ゴジラ』のラストで映し出されたゴジラの尾、そこに生じた人型からは、「ゴジラの力を得た人間こそが天叢雲剣である」という意図が読み取れる。

結局、「ゴジラ以前」も、「ゴジラ以後」も、人間は変わらない。人間自身が生み落したゴジラによって滅亡の危機に瀕しても、そのゴジラをも取り込み、超越して、さらに強大な存在となって歩き続ける。

人型のおぞましく醜怪な造形を見れば、その歩みは多分に悲惨で、悔恨と苦難に満ち溢れたものに思える。

一方で、作中における「福音」・「この国はまだやれる」といった言葉の数々、そして『シン・ゴジラ』がスサノオ神話の大いなる変奏であることから、きっと人間はいかなる困難も乗り越えていけるという希望も同時に感じられる。

 

エヴァンゲリオンでは、あれだけのことをやっておきながら、最後の最後に放たれたのは物凄くシンプルな生のメッセージだった。

それを思えば、いかにも庵野監督らしい、なんとも遠回しな希望の表現と言えよう。

 

 

こうして、前途に横たわる茫洋とした未来に仄かな光明を感じさせながら、「現代のスサノオ神話」である『シン・ゴジラ』は幕を閉じ、物語は続く。

 

 

おまけ:シン・ゴジラの評価が海外でイマイチな理由の考察

会議が長すぎるとか、CGがしょぼいとか、いろいろ言われているようだ。

 

上で述べてきたように、『シン・ゴジラ』の根底にはスサノオ神話という極めて日本的な物語が存在する。創作物の根底に神話を置くのは決して珍しいことではなく、むしろ普遍的なことだ。

ただ、スサノオ神話の変奏をするにあたって、『シン・ゴジラ』で行われた種々の表現は、それ自体があまりにも日本的過ぎた。

結果的に、根底にあるものは極めて日本的、脚本も、映像で目に見えるものもあまりにも日本的ということで、日本人以外にはとっつきにくいものになってしまった。

 

とはいえ、『シン・ゴジラ』を見る限り、日本の実写映画でこれ以上に派手な・迫力のある映像を作るのはちょっと難しい気がする。脚本だって、東日本大震災を経た日本だからこそ書ける秀逸なものだと思う。

つまり『シン・ゴジラ』は成るべくして成った作品なのであって、極めて日本的であることはむしろ必然であった。それを「つまらない」と言われたところで、もはやどうしようもない。

 

もうひとつ。

海外での評価がイマイチな理由として最後に残るもの、それは「同じ神話を共有していない」ということだ。

それは同時に、多くの日本人が潜在的に保持し、何かしらのきっかけで表出するスサノオやヤマタノオロチのイメージ、いわば「日本人の集合的無意識」こそが『シン・ゴジラ』を面白くしているということでもある。もちろん日本人であっても、そのような集合的無意識を持ち合わせていない人はいるだろうが。

 

まったく未知の文化圏の神話、あるいはそれに極めて忠実な創作物に触れた時、学術的な興味関心から面白く感じることはあっても、純粋に娯楽として楽しめるだろうか。正直、かなり難しいのではないかと思う。

創作物の表層に顕れた要素(会議が長すぎるとか)にまったく馴染みがないためにそれを楽しむことができず、かといって同じ神話(スサノオのヤマタノオロチ退治)を共有していないがために、根底にある神話的普遍性に面白さを見出すこともできない。これでは評価がイマイチになっても仕方がない。

 

例えばスター・ウォーズのように、物語の神話的骨子を保ったまま圧倒的な面白さを実現し、映画として全世界的な評価を得ている作品も存在する。

だからと言って、日本的な要素を薄めてまで、『シン・ゴジラ』に世界を見据えた作品になってほしかったというわけではない。

日本の、日本による、日本にしか作り得ないゴジラが『シン・ゴジラ』である。結果的にそれが日本人のため(だけ)のゴジラになったとしても、それはそれでとても価値のあることに違いない。

 

 

いやはや、シン・ゴジラは面白い。とてつもなく面白い。

早いとこBD、いや、UHD BDが出てほしいと願わずにはいられない。

 

 
【UHD BDレビュー】第18回『シン・ゴジラ』